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執筆者の写真すわ

「空手」と 「空手道」

更新日:2018年5月14日



こんにちは!

祖師谷支部の斎藤です。


息子が小学一年生の夏、諏訪先生のもと、私達父子は空手道を始め、昨年夏に私は黒帯になりました。


諏訪先生からのご要望により、私は空手道の固い話(笑)を書こうと思います。


空手道をしているとたまに「空手と空手道は違うの?」と聞かれるので、空手道の歴史を紐解いて、名称の変遷を史実に推測を加えてお話しします。


長文となり、読了の目安は5分程です。

ご本人もしくはご家族が空手道をする方はぜひ読んでみて下さい。


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空手道は書籍や団体名に使われる名称に「空手(カラテ)」と「空手道(カラテドウ)」の二通りあります。


空手道の発祥は琉球王国時代の沖縄県であり、名称の変遷には琉球王国の歴史が関係しています。


琉球王国は東アジアの中心に位置する地理的優位性により栄えていました。


15~16世紀に倭寇(ワコウ)という海賊が出没して、貿易船や海辺の村が襲われる事件が多発しました。


このとき、自分達の身体や財産を守る為に用いられた護身術が「手(ティー)」であるといわれています。


1609年、薩摩藩の琉球侵攻が行われ、琉球王国への中国と薩摩藩の二重支配が始まります。


1613年、薩摩藩により琉球王国への禁武政策が行われ、帯刀等の武器の携帯が禁じられました。

これは比較的緩やかな政策でしたが、琉球の人々は薩摩藩からの弾圧を恐れ「手(ティー)」を秘密裏に伝承しました。

「手(ティー)」の伝承には「型(形)」が用いられましたが、これは中国武術の「套路」を模倣したものでした。


琉球は中国への朝貢貿易を続けていたこともあり、中国から琉球へ来た冊封使節団の随行者等から中国武術を学ぶ機会があった様です。


戸部良煕著『大島筆記』(1762年)には、1756年に公相君(クーシャンクー、意味:高位の人物)が冊封使として琉球へ訪れたことが記録されています。


佐久川寛賀(1786-1867年、諸説あり)は、進貢使節団の一員として北京で中国武術(北派少林拳)を学び、「手(ティー)」と融合して「唐手佐久川(トゥーディーサクガァー)」と呼ばれました。


この前後から「唐手(トゥーディー)」の名称が使用され、従来の「手(ティー)」を「沖縄手(ウチナディー)」と呼んで、それぞれを区別した様です。


また、薩摩藩には『二の太刀いらず』で有名な「示現流」の剣術がありました。


松村宗棍(1809-1899年、諸説あり)は、佐久川寛賀から「唐手(トゥーディー)」を学び、薩摩で伊集院弥七郎から「示現流」の免許皆伝を得て、「武士松村(ブシマツムラ)」と呼ばれました。


「示現流」の剣術は、初太刀に勝負を掛ける鋭い斬撃にありますが、これが一撃必殺の思想へと結び付いたことは想像に難くありません。


薩摩藩の支配があった為に秘されていた「唐手(トゥーディー)」が表に出て来るのは明治維新を経てからです。


明治4年(1871年)、廃藩置県が行われ、翌年、明治政府は琉球国王尚泰を琉球藩王に封じて華族へ列し、琉球藩を設置しました。


そして、明治8年(1875年)、明治政府は琉球処分の方針を固め、明治12年(1879年)、琉球藩を沖縄県としました。


沖縄県は本土と同じ教育制度を受け入れることになります。


糸洲安恒(1831-1915年)は、松村宗棍に師事しました。そして、沖縄県になっても琉球の文化が失われない様、教育制度の体育に「唐手(トゥーディー)」が採用される為に尽力しました。


このとき、読み方が中国語を基とする音読みからヤマト言葉を基とする訓読みの「唐手(カラテ)」へと変わったのです。


その後、本土に空手道を伝えた船越義珍(1868-1957年)は普及させる為に何度も改称をしました。(前出の松村宗棍ー安里安恒ー船越義珍という系譜)


大正11年(1922年)、船越は上京し、柔道の講道館に招かれて講演を行いました。同年『琉球拳法 唐手』を出版。


大正14年(1925年)、船越は二冊目の著書『錬膽護身 唐手術』を出版。


昭和4年(1929年)、船越が師範を務める慶応義塾大学 唐手研究会の機関紙で、般若心経の「空」の概念を参考に「空手(カラテ)」と表記することを提唱。


そして昭和10年(1935年)、船越は三冊目の著書『空手道教範』を出版し、日本の武道であることを表す為「道」の文字を付加して「空手道(カラテドウ)」としました。


これが東京を中心に広まったと云われていますが、段階的に改称した為、最終的に「空手」と「空手道」の二通りの普及をしてしまったことが伺われます。


なお、「国際オリンピック委員会(International Olympic Committee、IOC)」の働きかけで出来た「世界空手連盟(World Karate Federation、WKF)」は「空手(Karate)」と表記、そして日本の国内競技団体「公益財団法人全日本空手道連盟(Japan Karatedo Federation、略称:全空連もしくはJKF)は「空手道(Karatedo)」と表記しているので、どちらも正しいと云えます。


〈まとめ〉

・15~16世紀の倭寇(ワコウ)への対抗策として「手(ティー)」が使われる。

・1609年琉球侵攻、1613年禁武政策により「手(ティー)」は秘される。

・「手(ティー)」は「型(形)」で伝承、中国武術の「套路」に倣う。そこから「唐手(トゥーディー)」と呼ばれる。

・薩摩藩の「示現流」の剣術から影響を受け一撃必殺の思想が導入される。

・明治4年(1871年)廃藩置県後、琉球王国は段階的に解体され沖縄県になる。

・教育制度の体育に採用され、読み方が「唐手(カラテ)」へ変わる。 ・大正11年(1922年)本土へ伝わり、般若心経の「空」の概念から「空手(カラテ」へ、武道として「道」の字を加え「空手道(カラテドウ)」となる。


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先人の知恵を学ぶ上で、先人の置かれた環境やその想いを知ることは大切です。


「空手」も「空手道」も、そのルーツは大切な人や物を守る為に生まれたことを忘れないで下さい。


長文を最後までお読みいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m


*1:敬称略

*2:出典は「Wikipedia」および「空手関連団体のHP」を参考に、諸説あるなか、一番自然だと思えるものをご紹介いたしました。


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